発展途上であればこうしたことも正義とみなされるだろうが、ある程度の物質的要求が満たされ、次のステップとして精神的要求が高まりつつある日本で、今までの正義が危うくなり始めているのはごく自然な流れである。

若年層を中心に、「クルマは好きだけど、自動車メーカーでは働きたくない」といった声が大きくなりつつあることはそのひとつのあらわれであり、自動車産業にとっては非常に危険なシグナルである。

なお、過当競争に伴う値引き合戦の激化は、今や各メーカーの消耗戦といった様相を呈しているが、特別仕様車という名の大幅値引き車の広告が連日のように新聞紙上を賑わしスーパーの特売のお知らせと同じようなチラシが新聞に折りこまれてくる。

今や中古トラックも新車同様の高品質だ。

役員から現場の新入社員まで、まさに身を粉にして働いていた。

たまに10時前に家に帰ると、「身体の具合でも悪いの」と、家族に心配顔をされるといった話が笑い話にもならないような状況だった。

もちろん、休日出勤など当然のこと......。

日本の自動車産業の活況や中古車トラックの品質の高さはそうした状況の上に成り立っていたのである。

確かに、個々の技術にしても、生産システムにしても日本は他国のサンプルになるものをもっている。

だが、それらの多くは、「残業を厭わず」「こまやかな気配りをもち」「会社に忠誠を誓う」、優れた労働力と密にリンクすることによって成り立っていたことを知る必要がある。

「必要なものを、必要なとき、必要なだけ」部品メーカーから組み立てメーカーに納入することによってコスト高の要因になる在庫をもたないようにするという、トヨタによって考案され、一時期世界を席捲した感のあるジャスト・イン・タイム方式(カンバン方式)にしても、とくに、末端の労働力に大きな負担がかかることは明らかだ。

「ユーザーのニーズの多様化に応えて」というキャッチフレーズの下に「隙間を埋める商品」なるものが続々と登場し、車種数も増え続けた。

その結果、当然の流れとしての過当競争が始まる。

それは「仁義なき乱売合戦」というにふさわしいものだった。

つまり、「ユーザーのニーズの多様化に応える」という美名の下での熾烈な競争は、日本の自動車産業に「従業員はくたくた」「会社は儲からず」「海外からは叩かれっぱなし」いう三重苦をもたらし(92年2月、自動車総連産業政策委員会答申書より)、バブルの夢から覚めた後はその後遺症だけが重くのしかかることになってしまったのだ。

それにしても、雨後の竹の子のようにニュー・モデルが誕生し続け、トラック中古車に流れた頃の、各メーカーの開発状況は凄まじいものだった。

毎日がお祭りのような平成の夢の後の寝覚めがこれほどひどいものだとは誰も考えてはいなかっただろう。

5000万円で買ったちっぽけな家がいつの間にか1億円にもなり、株は上昇の一途で、即席の億万長者が続々と誕生した。

一着20万円のスーツが飛ぶように売れ、コース2万円のフランス料理屋はいつも予約でいっぱい。

強力な円は、世界の著名な映画会社、ホテル、ビル、由緒ある城、葡萄園までを買いまくった。

その上、「日本がいちばん」といった賛美の声が海外からも続々と湧きあがってきたのだから、みんなが酔い、はしやぎまわったのも当然のことだ。

自動車産業も同じだった。

造れば造るだけ売れる国内市場、中古トラックも好調に売れ、好調を続ける海外市場はトップメーカーのトヨタに例をとれば、7338億円もの巨額な利益(1990年6月期経常利益)をもたらしたのだ。

そんな環境下では、増産態勢への投資に慎重な姿勢をとるような経営者は「前向きではない」と批判にさらされたのもうなずける。

戦線は膨らむだけ膨らんだ。

この対向した気筒は、VWのそれとは違って互いに僅かな角度をなしていた。

アゥストロ・ダイムラー社にあっても、ポルシェはそのお家芸ともいえるガソリン・エンジン発電、ハブ・モーター駆動方式のミクステタイプの開発を進め、ウィーン市のバスにもこのシステムが使われた。

そして科学技術がいちはやく軍事目的に転用されるのは、当時の時代の流れといってもよかった。

ポルシェもオーストリア陸軍のために重砲(口径三〇・五センチ)の牽引車(ミクステ)や、路上列車といってもよい、多数の貨車(車輪にハブ・モーターがつく)を連結した牽引車の設計を行い、これらはやがて大戦中、イタリア戦線で大活躍した。

職人気質に徹したポルシェは、軍用であれ民需用であれ、与えられた課題に真剣にとり組んだ。

それはまさに、今の中古車トラックなどの輸送にかかわる自動車の登場するきっかけとなり、物流がさらに速くなる原動力となるのであった。

アウストロ・ダイムラー社のこの分野への進出は一九〇七年と、かなり早い。

というのはヨーロッパでの初飛行が行われたのは一九〇六年一〇月二三日のことで、このときブラジル人のサントス・デュモンは、自製の複葉機で約二三メートルを飛行した。

アウストロ・ダイムラー社の最初の航空エンジンは水冷直列型で、初めパーセヴァル軟式飛行船に搭載された。

ついで一九一〇年には最初の飛行機用エンジンが完成した。

ただし、当時オーストリアには飛行機は一機もなかった。

しかしポルシェは飛行機の将来性を強く主張し、その航空エンジンの優秀性もてつだって、一三年にはオーストリアの保有機数は一〇二を数えるに至る。

そして一九一二年、彼は後のフォルクスワーゲン(VW)用エンジンの遠い祖先といってよい、空冷水平対向4気筒の航空エンジンを設計した。

それはまさに、今のトラック中古車などの輸送にかかわる自動車の登場するきっかけとなり、物流がさらに速くなる原動力となるのである。

そういう人は、「あの中古トラックがこう動いたら、次はこれが動いてこうなる」という、いわば詰め将棋のようなパターンが、頭のなかですでにできあがっています。

このように、一つの現象をもとに次に起こる現象を予想する能力が、ここで私がいっている予知能力なのです。

あるいは、推理能力といい換えてもいいかもしれません。

こうした予知能力が発達している人は、ほとんど事故を起こしません。

危険が起こってからそれに対処するのではなく、危険が起こる前にそれを予測し、あらかじめ対処しているのですから、事故を起こしにくくなるのは当然です。

予知能力の養成は、周囲の状況を注意深く観察・分析することから始まります。

さまざまな情報のなかから不自然な現象を選びだし、推理力を働かせるのです。

また、この能力はどれだけ多くの経験を積んできたかにかかっています。

危険を回避する運転でいちばん大切なのは、危険に遭遇しないように走ることです。

何やら禅問答のようですが、「1秒でも早く情報をつかんで危険を回避しよう」という意識をつねに持って運転していれば、危険が危険でなくなることはままあります。

そこで必要なのが、予知能力です。

というと、何か神がかった能力のように思うかもしれませんが、たとえば「道路にボールが転がり出てきた→子供が飛び出してくる」という予想は誰にでもできるはずです。

これは教習所でも教えるもっとも単純なパターンですが、実際の交通環境のなかには、もっと複雑なパターンがたくさん存在しています。

たとえぼ、空車のタクシーが歩道側を走っていたら、運転手には当然、客を拾う意志があるという推理が成り立ち、前方に客待ちふうの人が立っていたら「止まるな」と判断できるわけです。

そこで早めにブレーキを踏むか、あるいは車線を変更して避けていくかは、そのときの状況で違いますが、その判断にもさまざまな要素が複雑に絡み合います。

そういった無限の組み合わせがある方程式を解く術を知っている人が、安全で優秀な中古車トラックドライバーといえます。

ルーツ・モーターズ社の発売するニューモデルはいずれもパッとせず、1931年(昭6)後半に至って発売したミンクスが大当たりをとり、同社の最も成功したモデルとなった。

ミンクスはその後数次の改良を重ねながら生きつづけ、第二次大戦後は同社製造モデルの主流となった。

これがいすゞの眼にとまり、国産化の対象に選ばれたわけである。

ヒルマンミンクスの仕様はエンジンの排気量1265㏄、出力37・5馬力/4200rPm、定員4名。

ヒルマンミンクスの組み立て製造は、いすゞの大森工場で昭和28月10月1日から開始された。

不馴れな乗用車の困難を克服して第1号車がオフラインしたのは同26日、ルノー日野、オースチン日産におくれること6ヵ月ながら、ここに戦後の自動車メーカー3社揃い踏みの国産化作業がスタートしたのである。

当時は href="http://www.yamatolease.co.jp/truck-ichiba/index.html" target="_blank">トラック中古車の需要を受けたトラックと乗用車の製造が主であった。

昭和28年5月、6400㏄、4気筒のヒルマンーコータレン第1号車完成。

引きつづき製造活動に入ったが、コータレンは2年後サンビーム社に移ったため、社名をヒルマン・モーターカー社と改称。

1913年に発売したヒルマンナインがヒット作となり、社業は軌道に乗った。

第一次大戦後の1921年、不況のさなかにウィリアム・ヒルマンが死去したこともあって同社はモータースポーツ活動から手を引き、地味な製造活動に専念する。

当時は中古車トラックすら貴重で、車を作れれば御の字という状況だった。

1925年に発売したヒルマンフォーティーンは廉価の方針が当たってヒット作乏なり、ウィリアム亡きあとの経営に一応の安定をもたらした。

1928年、理由は定かでないが、ヒルマン・モーターカー社の経営権はウィリー・ルーツとレジー・ルーツの兄弟の手に移る。

このときルーツ・モーターズ社の社名に変わったものと思われるが、なぜかロンドンで刊行された自動車百科事典にも、その点の説明はない。